(まえがき より)
歴史観は、二つの段階を経て築かれると筆者は考えている。一つ目の段階は歴史的事実の把握であり、二つ目の段階は歴史的事実を踏まえた世界観の醸成だ。
建築意匠分野に比較すると、建築環境分野の人間は歴史観に乏しいように思う。この歴史観の欠落が許されてきた最も大きな理由は、我々(以下、本書では、筆者を含めて建築環境分野に身を置く同胞たちの意味で「我々」という語を使う)が専門とする建築環境という分野が、狭い意味
では技術に属していたためだろう。明治維新を一応の区切りとして、それ以降の我々の歴史を俯瞰すれば、基本的には技術は変化を続けてきた。
だからこそ、発展する技術へ追従し続けるだけでも一応は身を立てられた。このため、その視線の先は現在または近い将来にとどまり、長い歴史の輪郭を手がかりに現在から遥か将来を展望するという動機は少なかったように思う。建築意匠の分野では既に明治二〇年代から建築史という研究が始まり、近代以前の日本建築との連続性という問題に頭を悩ませてきたこととは対照的と言って良い。
ところで、このような技術一辺倒の振る舞いが今後も続けられるのかと問われれば、我々の多くは不安を覚えるところだろう。この分野でいくらかの時間を過ごした者ならば気がついているように、我々が普段、自由な活動を繰り広げるための拠り所としている技術の発展は、実のところは相当に飽和していて、ほとんど停滞とみなし得る動きしかみせていない。このことは、多少なりとも歴史を知り、時間に対して相対的な視点を持てば、さらにはっきりと認識される。技術の進展が我々の外部から我々の存在を肯定してくれるような幸せな状況は、早晩、失われることを覚悟しなければならない。これは、我々が錦の御旗として掲げがちな地球環境問題についても同じだ。我々を支える根拠を外部に求めることは、強靭なようでいて、実は脆い。
この段階に至れば、いよいよ我々は建築環境に取り組む意味を我々自身の内側から探し出す必要に迫られることになる。そして、このときに最も有力な手がかりとなるものは歴史観だろう。そもそも我々の専門分野は、究極的には人間の感性を相手にせざるを得ないという意味で、歴史に学ぶべきことの多い分野だ。これは、例えば建築構造が、建物の強さという相当に強固な自然科学的評価指標を持つことと大きく違う。我々が生み出す建築環境を最後に評価する主体は人間で、この人間というものは気儘で矛盾している。だから愛しい。人が表す評価は、我々が普段、安直に使うことの多い「最適値」などという概念ではつかめないということは再認識しなければならない。だからこそ、我々が建築環境に取り組む意味を自身の中に形作るためには、矛盾を抱えた人間たちの葛藤の記録である「歴史」を手がかりにするしかないと思われるのだ。
本書は、以上の問題意識を踏まえて執筆した建築環境の歴史書だ。明治元年を起点とし、平成に至るまでの一〇〇年あまりの歴史を編年体で綴った。ただし、これは明治以前の歴史を軽視したものではない。むしろ本来であれば、人間と社会が持つ連続性を浮かび上がらせるべきは、このように外形的に技術的断絶が観察される時期なのだろう。つまり、明治以降を題材としたのは、単純に筆者の力不足が原因だ。
本書では図や数式の類は使わず、数量の直接的な記載もできるだけ避けた。このような歴史的事実についての資料は充実したものが既に多数、存在するためだ。筆者は第二段階の歴史観こそが我々の分野に最も不足していると考えている。この段階では、数量に頼り、年号を暗記するような歴史理解の態度は、多くの技術者にとってむしろ害になるだろう。また、建築環境分野のみを微視的に探索するのではなく、環境を含む建築全体や社会まで俯瞰するように努めた。この重層構造の中で、各時代で先人たちが何を考え、どのように生きたのかについて思いを馳せたいと思う。
最後に、歴史を学ぶ目的は単なる懐古にはないということは明言しておきたい。過去を通じて現在をより深く知ろうとする狙いは、一度しか訪れない、未知の明日を現実に生きていくための手がかりを得ることにある。
それでは、我々の今と明日のために、建築環境の昔の話を始めよう。
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