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昨日で、古希を迎えた。
別に目出度い話でもないと思うが、同窓の友人が、
何人も冥土に旅立っているので、そういう事を考えると
丈夫に生んでくれた両親と何かと気遣ってくれる嫁に
感謝しなければと殊勝にも考える。
しかし若い時分には、まさかこの年まで働いているとは
考えもしなかったが、現実は厳しくまだ恥をさらしながら
頑張っている。
自分は、幼い時の記憶がわりかしはっきり覚えており
工業高校を卒業してから52年間建築設備一筋に歩んできたので
設備関連の幼い頃からの記憶を振り返ってみる。
5歳位迄、我が家は井戸水で生活していた。
釣瓶でくみ上げるやつである。
水道が引き込まれた日をはっきり覚えている。
便利なものだとつくづく思った。
言っておくが、そんなド田舎ではない。
農家でもない普通の人口一万人位の町だった。
井戸は井戸で冷蔵庫がない時代スイカやビールを冷やすのに
便利なものだった。
電話がついたのは、幼稚園の遠足から帰ったら見慣れないものがついて
いて電話というものを初めて知った。(商売をしていたので、結構早かった。)
壁掛けで受話器は左手で持ち右手で、ハンドルを回し
声は、ラッパ型の送話機に向かった話す。
交換手が出て相手の番号を告げると繋いでくれる。
大阪なんかだと2時間くらいたってやっとつながった。
蛍光灯が、我が家についたこともはっきり覚えている。
20wくらいの直管の蛍光灯だったが、その明るさに
感動した事を覚えている。
小学校1年生の時にソ連が、スプートニク1号を打ち上げ
それが、夜空に点滅しながら移動しているのを見て子供心にも
感動したのを覚えている。
もう一つ感動したのは、今考えると5号位の元止め式の
ガス給湯器、寒い冬に簡単にあったかい湯を使えて
本当に便利なものだと思った。
就職した時、備品として計算尺や、算盤を支給された。
先輩方は、それで仕事をしていた。
電卓は、30万くらいしており(12桁位)手取3万くらいの新入社員には、
触らせてもらえなかった。
古希になったので、とりとめもなく今までの思い出を書いて
しまったが、今までの人類の歴史の中でここ50〜60年は、
加速度的に技術革新が起こり今後どの様な世の中になるのか
見てみたいと思いがあるが、どこまで見れるか
どこまで自分の頭がついてゆけるかと思う
何時まで働けるかわからないが、少しは若い設備技術者の
邪魔にならない様に手助けになれればと思う今日この頃です。
取り留めのないことを書いてしまってこれもボケの始まりか <(_ _)>
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